蔵元の歴史

高知の食と風土と人と共に130余年。
伝統の味と新たな土佐体感地酒をこれからも。

商都に酒造りの
礎を築いた黎明期

江戸から明治時代にかけて、製塩業や回船業などで富を得た商人の町として栄えた赤岡。江戸時代には町内に7軒の造り酒屋が軒を連ねていたともいわれている。

高木家がこの地の文書に現れるのが1878(明治11)年の住民印鑑届出帳。高木喜右衛門が印鑑改定を届け出ている。喜右衛門は1905(明治38)年に77歳で没したことから、少なくとも高木家は、江戸時代から赤岡に根を下ろしていた。

米の取引や養蚕業なども手がけた高木家が、本格的に酒造りを始めたのは1884(明治17)年。創業者である高木熊太郎が売り出した酒は「喜久娘」の銘柄で親しまれた。

1925(大正14)年、二代目の助次は「春柳」の登録商標も得る。さらに3年後、同じ町内にあった寺尾酒造の廃業を機に、同社の銘柄「豊能梅」を譲り受けることになる。ここに今も受け継がれる高木家が醸す「豊能梅」が誕生することになった。

なお「豊能梅」とは、寺尾酒造の八代目・梅太郎の誕生を祝ったのが由来。梅太郎は赤岡銀行を設立、自由民権運動にも深い関心を示し、赤岡の名誉町長も務めた名士であった。

激動の中で
左党の心をつかむ酒

寺尾酒造から籍を移してきた番頭・岡本の手腕もあり、豊能梅は人気を博していく。昭和初期、高知市以東のある人気料亭では「酒と言えば豊能梅」というほどに愛された。

蔵では三代目となる久吉も誕生し、順風満帆かに思えたが、その頃から徐々に日本は戦争へと突き進み、世に暗い影を落としつつあった。

さらに人一倍負けん気の強かった久吉が高木家の方針に反発。蔵を出て神戸の酒問屋へ転職する。はからずもここで久吉は、唎酒能力に磨きをかけることになる。

助次は難しい舵取りが続く中、さらなる飛躍を目指し、1939(昭和14)年、社名を株式会社豊能梅酒造株式会社と改称する。

二代目 高木助次

波瀾万丈の人生を
糧に新たな挑戦へ

三代目久吉は神戸から帰郷後、家業に専念し、その能力をいかんなく発揮するも、伝統や体面を重んじる蔵の方針に度々反発を繰り返す。再び蔵を飛び出し、鉄道工夫を経て大阪で氷の配達夫として働くことになる。

ここで久吉は浪花商人の根性を目の当たりにする。その後郵便局員となり、戦時中には野戦郵便隊員として中国大陸で活躍。経理にも明るかった久吉は異例の出世を遂げ終戦。1945(昭和20)年、高知郵便局へ復職を果たす。

しかし高齢となった助次の引退を機に、ついに久吉は蔵へ戻ることを決意。三代目として本格的に酒造りに向き合っていく久吉。しかし赤岡に戻って目にしたのは、戦争や株主とのトラブルによって荒廃した蔵の惨めな姿だった。

「三代目の酒」と
世に轟く祭りを興す

1952(昭和27)年、いまだ戦後復興の槌音が響くなか、社長に就任した久吉は蔵の再生に邁進する。釜場をほぼ2倍に増築。槽場、麹室、瓶詰場、精米所と次々に改修し、酒造りの環境を刷新していった。

さらに鉄筋コンクリートの貯蔵庫を建て、日本初の地下貯蔵タンクも設置。そこで生まれたのが今もレギュラー酒として親しまれている「楽鶯 豊能梅」だ。当蔵で「三代目の酒」と位置づけるこの酒は、「飲みやすく飲み飽きない」という土佐酒の特徴を端的に表現する銘酒として、揺るぎない地位を築くことになった。

「楽鶯 豊能梅」にはもう一つの顔がある。それは今や「大杯飲み干し」で全国に名が響く、奇祭「どろめ祭り」の大杯に注がれる酒であること。

1959(昭和34)年、久吉は赤岡の活性化を旨に「赤岡産業祭」として「第一回どろめ祭」を立案。第三回からは主催者となり「大杯飲み干し」が実施する。各地から集った猛者が豪快に大杯を飲み干す姿は、まさに「楽鶯 豊能梅」の味わいをそのままに表現しているといえよう。

三代目 高木久吉

高知らしさを軸に
据え味の幅を広げる

1957(昭和32)年、跡取りに恵まれなかった久吉は、岩貞皖水(いわさだきよみ)を養子に迎えた。蔵に迎え入れられた皖水は日本醸造研究所へ入所。助手として研究の日々を続け、日本酒の知見を深めていく。そして1967(昭和42)年、激動の時代に豊能梅を一大ブランドとして育て上げた久吉は、ついに皖水へ社長を譲ることとなった。

皖水が四代目となった昭和40年代頃、まだ日本酒は造れば売れる時代だった。しかし、皖水はその状況にあぐらをかくことなく、新たな「四代目の酒」を模索する。

そこで取り組んだのが「高知らしい酒」。1974(昭和49)年、温暖な気候を活かした県産早場米を使った、日本一早い新米の新酒・にごり酒「おり酒」が誕生する。同酒は発売以来口当たりの良さと豊かな味わいが人気を得て主力商品に成長。毎年9月上旬の出荷風景は、今や高知の夏の風物詩としても親しまれている。

そして発売から30年以上経った2010(平成22)年に、日本全国美酒鑑評会・個性派部門にて準大賞を受賞する。

四代目 高木皖水

最後の土佐杜氏から
蔵元杜氏の時代へ

創業より小仕込み、手造りにこだわってきた豊能梅。1993(平成5)年、その丁寧で確かな酒造りをさらに高みへ押し上げるべく、「最後の土佐杜氏」といわれる有澤国一を蔵に迎え入れた。

翌年には老朽化した蔵を改修。大竜巻の襲来を受けるも奇跡的に無傷なまま、より質の高い酒造りが可能となった。1995(平成7)年には、五代目となる直之が帰郷。大学卒業後に微生物関連の仕事についていた直之は、有澤と二人三脚で酒造りに取り組むこととなる。

有澤の豊かな経験と直之の知識が融合した酒造りは見事に功を奏し、5年連続で全国新酒鑑評会で金賞を達成した。

2001(平成13)年、直之は社長に就任するも引き続き有澤と共に酒造りに汗を流す。そしてその6年後、有澤の引退と共に、その技を引き継いだ直之が製造責任者となり、五代目にして蔵元杜氏が誕生することになった。

  • 五代目 高木直之

  • 有澤国一

ぶれない姿勢で醸す
土佐体感地酒を目指す

直之が蔵に入った1995(平成7)年頃、高知県内では普通酒の消費が落ち始める一方で、都市部では吟醸酒などの高級酒を中心に地酒ブームが起こっていた。同時に若者の日本酒離れもささやかれ、日本酒業界は岐路に立たされていた。

変革が迫られる状況で、直之は五代目として指針を立てた。

「どの時代でもぶれない日本酒の本質的な魅力を追求し、高知の魅力が詰まった酒造りを目指す」。

かつて久吉や皖水が確立した伝統の酒を「土佐体感地酒」と名付け、それをさらに一歩前進させた特定名称酒を将来の柱とした。それは高知の素材をきめ細やかな手造りで醸し、個性的で洗練された新たな土佐体験地酒、つまり「五代目の酒」への布石だ。

平成から令和へ受け継ぐ
新時代の地酒

1998(平成10)年、直之は高知県産酒造好適米「吟の夢」の誕生を契機に「高知県素材100%」の酒造りに取り組んでいる。

仕込み水は古くから物部川の中軟度の伏流水。さらに酵母は、幸いにして高知県工業技術センターが開発した高知酵母が10種類以上ある。直之は酵母による香味の違う3タイプの個性的な酒を提案。そのひとつが「土佐金蔵」シリーズだ。

いずれの酒も、食と調和し飽きずに飲め、飲んだ後に爽快な余韻を残すのが特徴。それらはすでに全国新酒鑑評会など各種コンテストで受賞し、新たな土佐体験地酒として光を放ちつつある。

2017(平成29)年、将来の六代目として一歩が蔵に入る。東京農業大で醸造学を学んだ一歩は、直之の指導の下、2019(令和元)年に杜氏に就任。久吉と皖水の伝統の味を継承しつつ、直之の酒造りをさらに掘り下げた「六代目の酒」を目下模索中だ。

改元と共に新しい時代を迎えた豊能梅。この地でしかできない酒造りを、これからは世界にも発信するべく、五代目、六代目、そして蔵人達は日夜汗を流している。

六代目 高木一歩

土佐の高知の地酒「豊能梅」日本酒醸造元

高木酒造株式会社

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〒781-5310
高知県香南市赤岡町443
FAX:0887-55-2605

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